~第2章 初出荷と混乱~

メンバー:井出剛社長、
山下尚美(2013年3月入社、営業推進室 副主任)、
上野史雄(2005年4月入社、業務推進室 リーダー)


上野:
あのー、今はクリスマス商戦の真っ只中ですよね。お客様からの受注で業務推進センターの電話は朝から鳴りっぱなしで、みんな、てんやわんやの状態です。なんでこのタイミングで社長インタビューでしょうか。
山下:
私も午後から東京出張ですが、たまには社長の昔話を聞くのも悪くないなと思っています。
井出:
昔話ではありません。<新入社員のための沿革>という企画です。
山下:
前回では福田農場ワイナリーの福田社長に【農】【業】の【業】をやらせてくださいと言ったということですが。続きを教えてください。
井出:
福田社長に宣言することで私の気持ちも固まりました。ここから「果実堂のベビーリーフ物語」が始まりました。予防医学のビジネスを求めて、水俣での果皮サプリメント時代から紆余曲折がありましたが、果実堂はようやく、この時、自分が進むべき道を見つけたのです。
山下:
大河の一滴です。感動します。
井出:
2007年4月、これまでベビーリーフ事業を荷っていた子会社の果実堂ウェルリーフを吸収合併して、いよいよ本格的に事業がスタートしました。私は全社員を集めて、これから果実堂はベビーリーフを年間1000トン*つくる会社にしたいと宣言しました。
*この宣言は、現在も続いています。2015年12月15日現在、果実堂グループは570トン(2015年度予定)を生産しています。
山下:
いきなり1000トンですか。商売は小さく産んで大きく育てるのがコツと習ってきましたが。
上野:
当時は小さな耕作放棄地と今に崩れ落ちそうなオンボロの工場だけしかなかったからみんな正気ではないと思って聞いていました。
井出:
たしかに足元は悲惨な状態でした。しかし私は農業というものは個人商売ではなく、スケールの大きな事業だと思っています。起業家としてビジョンを示す必要がありました。1000トンをつくるためには栽培面積は100ha以上、年間2000万パック以上を出荷出来る工場を建設する必要があります。
山下:
わかりました。でも・・・・実際に始めてみて、どうでしたか。
井出:
ぜんぜん、うまくいきませんでした。
上野:
ですよね。栽培が特に難しいといわれるベビーリーフを素人がつくれるわけがないじゃないですか。大きなビジョンも結構ですが、農業に対する考えが甘すぎましたよ。
山下:
どうしてつくれないのですか。
井出:
まさに上野くんの言う通りで、有機栽培ベビーリーフを周年で栽培するだけの技術力がなかったからです。特に6月から9月は梅雨、厳夏期、台風の季節で、日本が高温多湿のアジアモンスーン気候に覆われます。我々は恨みも込めて<魔の100日>と呼んでいましたが、ベビーリーフが成長過程でバタバタと倒れていきました。発芽さえしないこともしばしばです。その原因を解析したくても、ベビーリーフを専門に研究している国内研究機関はありませんでした。
山下:
パッキング工場の方はどうでしたか。
井出:
こちらも困難の連続です。築45年の建物は温度調整も難しく品質が安定しませんでした。在庫が効かないベビーリーフは刈り取ったら速やかにパッキングして出荷しなければなりませんが、うまくラインを組めず、モタモタして、渋滞が発生して、小さな冷蔵庫はモノであふれかえる状態でした。工場の流れを俯瞰して、効率化、原価低減を実行するだけの技術力がなかったのです。当時の技術レベルは、農家の軒先の選果場にすぎませんでした。
上野:
パッキングが間に合わず、配送業者が怒って帰ってしまい、日曜日の深夜、社長とトラックに乗って配送センターまで届けにいったこともありました。AMラジオをフルボリュームにして虚しさを掻き消しました。
山下:
私は営業ですから創業時代のお客様にすごく興味があります。言葉は悪いのですが、無名の果実堂の、しかも品質の良くないベビーリーフを取り扱って頂けるお店はあったのですか?
井出:
ありました。イワサキエース様という熊本の地元で活躍されているスーパーです。果実堂の初代営業部長の坂口幸輝さん(現熊本ベジフル代表)が商談を決めてくれました。
新体制になってからの初出荷の日のことはよく覚えています。私は田迎店の青果コーナーに立ち、お客様が果実堂のベビーリーフを買ってくれるのをまだかまだかと待ち続けました。1時間くらい経ったときでしょうか、ベビーカーにお子様を乗せた清楚で美しい奥様がさっとカゴの中に入れて下さいました。
果実堂のベビーリーフの第1号のお客様です。
上野:
本当に美人でしたか?
山下:
本題と少しずれていませんか。でも最初の1個が売れる瞬間を見ることができたのですね。
井出:
そうです。小さなスーパーの片隅で感激に震えていたのを覚えています。卸値で、たった70円の売上でしたが、本当に大きな一歩でした。種を植えて、栽培をして、刈り取りをして、パッキングをして、お店に販売して、現金が回収されるというビジネスの循環が達成されたのです。【製品】が【商品】になった瞬間でもありました。
上野:
たかが1パックですよ。おおげさです。
山下:
私は感謝の気持ちを忘れないことは大事だと思います。今でもイワサキエース様の催事は大事に続けるようにと社長が言っている本当の訳を知ることが出来ました。
井出:
しかし、つくれない、パッキングできない、売れない、の三重苦の暗いトンネルが長く続きました。とうとう私の自己資金も底をついて、せっかくベンチャーキャピタル様から頂いた資金もやがて底をつき始めました。そこにさらなる不幸が襲いました。リーマンショックです。世界的不況の中で、とうとう赤字のベンチャー企業にお金を出してくれる人もいなくなりました。この時期、将来有望なベンチャー企業が次々と<死の谷>に落ちて姿を消していきました。
山下:
果実堂も<死の谷>に落ちたのですか?
上野:
落ちていたら今の果実堂はありません。そうじゃなくて、もっと大変なことが起こりました。
井出:
<死の谷>の渕を彷徨っていても、私は1000トンの旗を降ろしませんでした。ある日、私の方針に反対する社員がファミリーレストランに結集して、翌朝の会議で私に退任を迫ったのです。導火線の短い私は、「そんなに言うならば一度自分たちでやってみたらどうだ」と言って果実堂の現場の一線から去りました。
山下:
もしもし・・・・無責任です。
井出:
しかし辛かったのは、私が現場を去ると、トランスジェニック時代からの同志で創業期の困難をずっと支えてくれた森山英治さん(現森山英治税理士事務所所長)、原田由紀さん(森山夫人)、森下知恵子さん(クラッセ社長)が果実堂を去っていったことです。

農場の兵頭聡さん(現顧問)は中国の海南島の農場に旅立っていきました。パッケージのデザインで貢献してくれた林田小宜里さん(現スタートディー)も去りました。山田奉文くん(現営業推進部リーダー)は、東京での催事を終えると、いつの間にか、いなくなっていました。
果実堂は創業の恩人を一度に失ったのです。

上京して千歳烏山駅前の鮨屋で盟友の岡田清社長(岡田精工グループ代表*)に慰められながら泥酔したことを覚えています。やはり悔しかったのだと思います。
*岡田精工グループ(本社東京)は、国内最大級のサプリメント受託工場の夢実耕望(岩手県)を傘下にもつ食品機械メーカーの雄。

こうしてベビーリーフ1000トン構想の第一幕は下りました。2008年12月16日のことでした。ベビーリーフ事業に本格的に進出して、わずか1年7か月の出来事でした。
山下:
果実堂を離れられ何をしていたのですか。
井出:
熊本市内のビルに小さな個人事務所を開きました。西村理子さん(現管理部リーダー)、畠山稔さん(現監査役)との3人だけの静かなスタートになりました。

その頃、熊本県北部の限界集落の和水町十丁地区によく行っていました。この地区出身の竹下周三さん(アジル代表)、二宮新哉さん(現和水開発室・農場長)との出会いから個人の資金で<なごみ堂*>という農業法人を立ち上げベビーリーフ栽培を始めました。設立式典は、あいにくの大雨となり、道路が封鎖され、神主様の祈祷をよそに農場がみるみる雨に浸かっていったのを覚えています。十丁地区では飼料米の栽培や竹林の整備もしました。県庁の小野参与(現副知事)に支援して頂きました。
*和水町のベビーリーフ事業は2009年に農業法人なごみ堂としてスタートして、2012年に果実堂と合併しました。今では5haになり、果実堂グループの有力農場になっています。

中国全国政治協商会議委員の蒋暁松氏(千博グループ代表)の招待で海南島ボアオで開催されるボアオ・アジア・ファーラム*にも行きました。習近平氏(現国家主席)をはじめ世界の指導者がアジアの農業について熱論を交わす姿を目の当たりにして、海の向こうから日本の農業の行く末、そして果実堂の再建を考える良い機会となりました。
*アジア版ダボス会議として2004年から毎年ボアオで開催されています。アジアからは日本も含む26カ国が参加しています。蒋暁松氏は創設者の一人です。

くまもと有機農業推進ネットワークの立役者の中島政敏局長(中島工場長の実父)にもお会いしました。中島局長は熊本県内に散在する有機農家を、一軒一軒、訪ねては生産者が結束することの重要性を根気強く説いてまわられました。この活動に同行させて頂くことで、水俣の棚田からスタートした有機栽培ベビーリーフ事業の意味と原点を、再度、噛みしめる良い機会となりました。毎年開催される有機農業推進ネットワーク主催のゆうきフェスタには、必ず参加して、果実堂の大切な日としています。
山下:
充電期間も大事ですが、そろそろ果実堂の現場に戻ってきてもいい頃じゃないですか。
井出:
約半年ぶりに果実堂に戻ってみますと会社の生命線である研究所*は閉じられ鍵がかけられていました。農業はモノづくりである限りサイエンスが欠かせません。まさに果実堂の心臓が止まろうとしていました。農場ではホウレン草が栽培されていました。西原村のパッキング工場に行きますと食品工場であるにも関わらず入口に灰皿とジュースの自動販売機があり、社員が煙草をプカプカ吸っていました。
*果実堂の研究所は益城本社に移るまでは、くまもと大学連携インキュベータ施設に入居していました。
山下:
工場の玄関で煙草を吸っていたのはヘビースモーカーの上野さんですか?
上野:
・・・・・・・
井出:
事務所は暗く雑然としていて靴箱の上に万次郎カボチャが飾ってありました。関東の超大型スーパー様からのせっかくの受注を価格が合わないからといって、なんとこちらから断っていました。<死の谷>がもう目前まで迫っていました。
上野:
社長の顔が怒りでみるみる赤くなっていったのを覚えています。
井出:
創業者として果実堂を閉じるか、再建するか、を決断する時がきました。
山下:
ドキドキしてきました。それからどうなったのですか?