~第5章 拾う神と再生~

メンバー:井出剛社長、
岩永里枝(2010年11月入社、工場管理室 副主任)、
米田朋樹(2014年 4 月入社、技術・品質管理室 副主任)

インタビュー日:2016年4月


井出:
2010年5月11日、矢崎総業の矢﨑裕彦会長を乗せた車は、熊本空港から果実堂の有機栽培ベビーリーフ農場へとまっすぐ向かいました。会長が乗られた1号車は私が運転手を務めました。緊張でハンドルを握る手が汗びっしょりになっていました。ところが後続の2号車が途中で道に迷って行方不明となるハプニングが起こりました。2号車には矢崎総業の部長、支店長代理が乗っておられました。
岩永:
何故ですか?果実堂の農場は熊本空港から僅か5分程度の近さですよ。
米田:
2号車は誰が運転していたのですか?
井出:
・・・・・・・・
結局、矢﨑会長が一人で農場(山下連棟ハウス)を見学することになりました。
1haあたりの収量や売上高、イニシャルコスト、ランニングコストについて質問があり緊張しながら答えた記憶があります。
岩永:
まさか、築45年のパッキング工場(縫製工場跡)も案内されたのですか?
井出:
当然です。オンボロ工場にも入られました。床のごみ、社員の挨拶、倉庫の収納、トイレを厳しい眼で視察され、5Sの取り組みについて質問がありました。
岩永:
さぞかしガッカリされたでしょうね。
井出:
いいえ、熱心に我々の話に耳を傾けられていました。

ところがプレハブの本社に移動した時です。長身の矢﨑会長の動きが急に止まり、仁王立ちになり、一枚のポスターを険しい表情で凝視されました。
米田:
何が起こったのですか?
井出:
ポスターには<果実堂は日本一のベビーリーフ会社になる>と記してありました。倒産が目前に迫っているときに再起をかけて社員全員で掲げたものです。

しばらく沈黙が続いた後、「うん、これでいいんだよ」と言われました。
それから急にやさしい顔になると社員に向かって「やるよ!」と言われました。
何度もの経営危機から不死鳥のように蘇った矢﨑会長が果実堂に求められたものは、立派な設備の農場でも最新機器が並ぶ工場でもありませんでした。どんな厳しい経営環境でも立ち上げって挑戦する<心>を求めていたのです。

その数か月後、前途未聞の奇跡が起こりました。
金融機関が再建の見込みなしと烙印した大赤字の農業ベンチャー果実堂に矢崎総業が出資を決めたのです。そのニュースは、瞬く間に中央財界に伝わっていきました。鈴与グループの鈴木与平代表や常石造船グループの神原眞人代表も熊本までご視察に来られました。お二人とも矢﨑会長の学友であられました。
懇親会は知事公舎で行われました。
岩永:
えっ、知事公舎ですか?
井出:
はい、でも県にも果実堂にも予算がないので山田奉文さんが臨時シェフになり、蒼い顔になりながらもベビーリーフのフルコースディナーを創作してくれました。
井出:
矢崎総業との資本提携を受けて果実堂は熊本部品(矢崎総業グループ)と天草市でベビーリーフ農場を設立することになりました。中国海南島にいた兵頭聡さんに急遽帰国してもらい技術顧問として立ち上げから参加してもらうことになりました。農地探しに大変苦労しながらも大屋善樹社長の粘り強い指導力で熊本部品は2011年5月23日に初出荷を果たすことができました。
*熊本部品の天草農場は2016年4月現在、農地面積3.5ha、ビニールハウス数82棟、年間65トンを出荷するまでの規模となり、果実堂にとってはなくてはならないパートナーとなりました。熊本県の農業分野における企業参入の成功例として評価されています。
井出:
この一連の動きに鋭敏に反応してくれた一人の優れたベンチャーキャピタリストがいました。SIPフィナンシャルグループを率いる齋藤茂樹社長です。齋藤社長は東京大学を卒業後、マサチューセッツ工科大でMBAを取得すると、ベンチャー経営の実務を経て、実父が創業されたSIPを引き継がれていました。
*実父の齋藤篤氏は日本最大のベンチャーキャピタルであるジャフコの創設者で、ベンチャー経営者の入門書となっている「産業としてのベンチャーキャピタル」の著者でもあります。
米田:
失礼ですがアウトサイダーの社長とは随分と違うエリートな経歴ですね。お二人の話が噛み合わないと思いますが。
井出:
・・・・・・
SIPのオフィスは青山の閑静な高級住宅地にありました。玄関には荒波の中を航海するマスト船の絵画が飾ってあり、経済学者J.A.シュンペーターの「この世の中で一番偉い人間は企業家である」という有名な言葉が記されていました。
最初の1時間は私が一方的に日本における先端農業ベンチャー企業の設立意義と事業計画を語りました。しかし次の1時間は齋藤社長から機関銃のような質問を一気に浴びせられました。その本質を突くような鋭い問いにすべて応えてクタクタになった時に齋藤社長はおもむろに立ち上がり物凄い圧力で握手されました。その後、細かいデューデリジェンス(経営分析)は一切ありませんでした。
米田:
要するに・・・・投資してもらえなかったのですね。
井出:
いいえ、齋藤社長は他のベンチャーキャピタルが先を争って投資を引き下げる最中、逆風を衝くようにして果実堂に投資を行うと社外取締役として経営に参加して頂きました。前職でボストンによく行っていたせいか、私は長いこと、日本には本物のベンチャーキャピタリストは根付かないと思っていましたが誤解でした。荒波の中で厳しい航海を続けなければならない<ベンチャー企業の本質>に迫る具眼の士と出会えたのです。

その齋藤社長の紹介で産業用LEDで急成長していたシーシーエスの創業者米田賢治社長にお会いしました。米田社長は福井県敦賀市長浜に国内最大規模の完全閉鎖式植物工場フェアリープラントテクノロジーを運営されていました。

2011年3月4日、福井地方に前日の豪雪が残る中、高瀬技師長と初めて<学校の体育館2つ分ぐらい>の巨大な施設を訪れました。普段は熊本で耕作放棄地の中古ハウスしか使用してなかったので威容を誇る先端植物工場を前にして身震いをしたのを覚えています。
米田社長の依頼は、ここでベビーリーフを栽培してほしいというものでした。
米田:
果実堂がベビーリーフの水耕栽培を、しかも大規模な閉鎖式植物工場で栽培したことを初めて知りました。
井出:
プロジェクトが始まると多くの社員が熊本から福井に行き巨大施設でベビーリーフ栽培の立ち上げに参加しました。
岩永:
えっ、みんな福井に行ったのですか。誰もそんなことがあったなんて話してはくれませんよ。
井出:
それには訳があると思いますよ。13段式の水槽、リフトを使っての刈り取り作業、巨大な液肥タンク、温度調整、風量調整の難しさに加え、試験出荷したベビーリーフは僅かな温度差にも耐えられずに全部トロケてしまいました。ベビーリーフの水耕栽培は深夜まで及び難航に難航を続けました。

それでも2011年10月22日に<果実堂の水耕栽培ベビーリーフ>を関西地区に初出荷しました。しかし、わずか数か月後に撤退が決まりました。今では幻の商品と言われています。
米田:
失敗したわけですね。
井出:
いや、どうすれば失敗するかがわかったので技術蓄積上では成功と云えます。負け惜しみではありません。
米田:
・・・・・・・
井出:
ただベンチャー界の雄といわれた米田社長の期待に添えられなかったことに、同じベンチャー界の末席に生きる者として悔いが残りました。
井出:
この福井での水耕栽培プロジェクトが縁で三井物産のベンチャー投資部門との出会いがありました。おかげさまで大型投資を受けて資金繰りが一服しました。ただし厳しい交渉で私は顔面神経痛になりました。高瀬技師長が社長の顔が歪んでいると言いだして第一発見者になりました。
岩永:
他に誰も気づかなかったのですね。笑えないけど可笑しいですね。
井出:
直後、三井物産ニューヨーク支社から帰国したばかりの和歌伸介室長が前任者に代わって果実堂の担当になりました。
米田:
和歌室長の話は今でもよく耳にしますね。
井出:
訳あって、私達は出会って間もなく新幹線の姫路駅前の小さな居酒屋で飲むことになりました。ぎこちない会話のやり取りから始まりましたが、やがて酒が進むにつれて、話がウォール街、鉄鉱石、華僑経済、そして農業と多岐にわたり、別れ際、私は初めて本物の<物産マン>に出会えた予感がしました。
米田:
物産マンとは?
井出:
うまくいえないのですが、グローバルな思考の中にあっても常にローカルな日本の行く末に想いを馳せているというか・・・・・

とにかく、この予感はすぐに当たりました。和歌室長は果実堂の社外取締役に就任すると専門の財務のみならず業務全般についても誠実に指導してくれました。

しかし何よりも大きな出来事がありました。和歌室長と後任の三井高輝室長の尽力により果実堂は三井物産ベンチャー投資部門から食品事業本部の管掌となり、運命が大きく開けたことです。
岩永:
どういう意味ですか?
井出:
果実堂は、株式公開のキャピタルゲイン(株式売却による利益)の対象から三井物産グループの農事業部の一角で一緒に汗を掻く道を歩むことになったのです。もし、この<転轍>がなければ、後にカゴメやトヨタ自動車、エア・ウォーターなどの事業会社との提携はなかったと思います。

和歌室長の社外取締役交代の異動に際しては社員が大泣きする場面もありました。今思えば姫路の居酒屋こそが伝統ある世界的商社と日本の小さなアグリベンチャー企業の最初の出会いの場所だったと思います。
米田:
ところで、私は先月、台湾の提携農場に行ってきましたが、果実堂と台湾農業の関わりについて教えてください。
井出:
了解しました。ある日、果実堂に海外から一本の電話がありました。その内容は、「日経ビジネスで御社の矢崎総業や三井物産との取組み記事を読んで、うちのトップが来週訪問したいと言ってます」というものでした。
電話の主は台湾屈指の農業財閥<興農グループ>で、トップとはグループを率いる楊文彬董事長のことでした。楊董事長は熊本を電撃訪問されると台湾でベビーリーフを栽培することを即決され、グループの拠点がある台中市に来るようにお願いされました。

2012月10月16日、九州北部豪雨の打撃から農場が回復したのを機に、高瀬技師長、当時の財務担当の青木隆寛副部長(公認会計士)と台湾に出発しました。尖閣諸島問題で政治問題が過熱化していた時期でした。
岩永:
そんな時期に行っても良かったのですか?
井出:
それより私の心配は飛行機酔いでしたが、案の定、台北国際空港に到着すると耳の具合が悪くなりました。
米田:
耳の話は結構ですので、話を前に進めてください。
井出:
興農財閥は、台湾全土に農薬、肥料、種苗の270店舗もの販売網を持ち、スーパーマーケット50店舗、給食センター、カット野菜センター、プラスチック工場、そしてアジア最大級の農薬GMP受託工場をもつ台湾証券取引所に上場するコングロマリットでした。

楊董事長の構想は台湾農業の中心である台中市に日本のハイテク農業を集結させて技術移転を図るとともに中国大陸に進出することでした。一方、果実堂にとってのメリットは亜熱帯地帯でのベビーリーフ栽培技術を獲得出来れば、将来、経済発展が著しい東南アジアに進出する道が開けるということです。
井出:
両社の提携協議は台中市の高級ホテル最上階の一室で朝食をとりながら行われました。
開口一番に「果実堂のコンサルタント代は本当に高いね」と楊会長が言われました。
「果実堂の技術指導料は確かに高いです。しかし、これだけは下げられません。」と私は断わり、「それでは契約期間は1年ではなく半年にしてみたら如何でしょうか。我々に能力がなければ延長しなくて結構です」と切り返しました。楊董事長は熱い豆乳を一気に飲み干すと大きく頷かれ、こうして台湾でのベビーリーフ栽培が開始されました。
この日から興農との契約は半年どころか3年半以上も続いています。高瀬技師長の努力で両社に信頼関係が醸成されたのです。人事交流も盛んに行われ楊董事長のご令嬢が自ら熊本でベビーリーフ栽培の研修を受けられました。今では果実堂の最南端の提携ベビーリーフ農場となっています。
*2016年4月現在、興農のベビーリーフ農場は1ha、年間生産量20トンで、台中市の超市スーパー50店舗やエバー航空の機内食として販売されています。
*楊董事長は2016年1月29日、急逝されました。68歳の若さでした。ご冥福をお祈り申し上げます。
岩永:
一方、最北端の農場は北海道千歳市にありますね。
井出:
2013年2月、産業用ガス最大手のエア・ウォーターと資本・業務提携を行いました。エア・ウォーターは、千歳市に国内最大級のトマト栽培施設を運営していましたが、その一角と隣接の路地でベビーリーフを栽培することになりました。
中尾勝次郎さん、渡辺勤さん、水村賢正さん、上原康浩さんが交代で千歳農場の立ち上げに参加しました。
米田:
北海道に行くなんて羨ましいです。
井出:
いえいえ、実際にはダウンバーストと呼ばれる珍しい下降噴流現象で真夏なのに雹(ヒョウ)が農地に降り注ぎ、栽培中のスピナッチを全部潰してしまうなど、それはそれは大変な出張だったのですよ。
井出:
さて再建に着手した2009年には、デスバレーの渕を彷徨っていた果実堂の業績も徐々に回復していきました。
ついに築45年のパッキング工場が満杯となり、思い出がたくさん詰まった工場ともお別れの日が来たのです。思案の結果、西原村から数キロ先の益城町にあるテクノリサーチパークのNTTの遊休施設に引っ越すことになりました。
岩永:
それが今の本社ですね。
井出:
その通りです。2012年11月2日、ここに本社、パッキング工場、研究所、栽培管理室のすべてを結集しました。約5倍の広さになりました。当初は工場も2階の事務所もガラガラでしたが、すぐに満杯になりました。

創業の時、<農>と<業>の意味を教えてくれた福田農場ワイナリーの福田興次社長だけは一番最初のお客様として新しい施設を案内したかったのですが、惜しくも2年前に他界され、その夢は叶いませんでした。
岩永:
ところで、社長はこの施設とは縁があると伺いました。
井出:
実は、この施設はトランスジェニックの社長時代に賃借していた施設です。なんの因果か8年ぶりに戻ることになりました。社長を退任するとき社員から花束をもらって去った入口に再び足を踏み入れた瞬間、胸の内から熱いものが込み上げてきました。遺伝子研究として使用していた施設を今度はベビーリーフ事業として使用することになったのですから施設の方もさぞかし驚いていると思いますよ。

引っ越し後のことは皆様、よくご存じのことだと思います。

工場には最新鋭の機械が導入されて一日の出荷量が3,000パックがやっとだった工場は今では最大40,000パックの出荷が可能になりました。農場面積は50haを超え、ビニールハウスは500棟以上になりました。年間14毛作を可能にした高瀬式機能性ハウスも完成しました。生産量は600トンに迫り、大手信用調査会社からベビーリーフ生産量日本一の認定を受けました。また、新規事業として発芽大豆の機能性研究も開始しました。
井出:
2013年12月、藤井啓吾カゴメ執行役員に尽力してもらい実現したカゴメとの資本・業務提携は果実堂のベビーリーフ業界での地位を高めるとともに、これまで成長重視で後手にまわっていた品質管理を農業分野の偉大なる先駆者であるカゴメに徹底的に見直してもらう機会にもなりました。

2013年3月、富士通九州システムズと資本提携しました。愛川義政取締役のリーダーシップのもと果実堂は農業とITの融合を目指すことになりました。

2013年10月、ミクニと資本提携をしました。完全密閉型土耕栽培の研究も開始しました。

2014年12月には、三井物産の山本隆彦シニア農業コーディネーターの尽力によりトヨタ自動車と資本提携しました。トヨタの近藤元博総合企画部長が果実堂をご視察され、<トヨタ生産方式>の生みの親の大野耐一先生を尊敬する中島工場長の緊張は最高潮に達し、カイゼンに対する想いを改めて強くする機会となりました。

このように多くの<拾う神>に出逢うことで瀕死状態だった果実堂は業績を回復して、売上高は3億円の壁、5億円の壁、10億円の壁を超えて、今では15億円の壁を超えようとしています。しかも2013年度、2014年度、2015年度、3年連続で増収増益を達成しました。ベビーリーフ事業単体では償却前利益率10%を超え、農業分野における株式公開がもっとも近い農業法人と言われるまでになりました。もちろん社員が最後の最後まで諦めずに挑んでいったからこそ<拾う神>が我々の前に現れたのです。
井出:
新本社での初出荷は早くもその移動月の2012年11月22日でした。
しかし、その晴れの日には二人の姿がありませんでした。パッキング工場の髙木富士子さんと業務推進センターの岩下智晴さんです。
パートの髙木さんは創業当初からパッキング工場を牽引してくれました。新潟出身の色白で長身の綺麗な方でした。もともと身体が弱いのに業務優先の姿勢を最後まで崩しませんでした。九州北部豪雨当時、深夜に及ぶパッキング業務を男性社員のみに絞った時、涙目で抗議されたのをよく覚えています。
業務推進センターの岩下さんは典型的な<肥後もっこす>の頑固者で周囲との諍いは絶えませんでした。しかし、いざ阿蘇波野の農場開拓や深夜3時までに及ぶパッキング業務になると呼吸困難になりながらも最後まで作業を続けてくれました。

お二人とも引っ越しの直前に会社を辞められました。髙木さんは家族の世話のために、岩下さんは天草の実家の郵便局を継ぐためでした。

中国に<花神>という言葉があります。
岩永:
どのような神ですか?
井出:
花神とは野山に花をもたらす神ですが美しい花が咲いたときにはもうそこにはいない神です。お二人は果実堂の花神だったのです。そのような大勢の花神が果実堂を支えてくれたことを新入社員の皆様はどうか覚えておいてください。
井出:
さて創業10年を記念にながながと語ってきました<新入社員のための沿革>はこれで終わりです。最後までお付き合い頂きまして有難うございました。
米田:
もう終わりですか。
井出:
次回は10年後だと思います。皆様の中の誰かが<次の10年史>を語ってくれると期待しております。
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<追 補>

この最終章の原稿を編集している最中、2016年4月14日、16日に震度7の熊本地震が起こりました。2度とも震源地が果実堂の本社のある益城町でした。大規模な震災に遭遇し果実堂は大変な危機に直面しています。

しかしこの熊本地震については私は語りません。このことについては10年後、皆様が<続編・新入社員のための沿革>でしっかりと記してほしい、と思っております。

ただ、その続編には、きっと果実堂の社員は<被災者>から勇気ある<挑戦者>になって未曽有の経営危機から再建を目指した、と記されることを信じています。